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1/25読書会(書評哲学カフェ)@❛はせしょ❜のまとめ ショーペンハウアー『読書について』

更新日:2021年12月2日

 ショーペンハウアーにならって、読書会(書評哲学カフェ)も開催しっ放しにせず、振り返ってまとめてみることにしました。


 2020年1月25日(土)、第1回「読書会(書評哲学カフェ)@❛はせしょ❜」を長谷川書店ネスパ店にて開催しました。

 課題本には読書会第一回目にふさわしく、18世紀-19世紀の哲学者ショーペンハウアーのエッセイ『読書について』(光文社古典新訳文庫)を取り上げました。

 参加者には、事前に『読書について』のなかの2つの章「自分の頭で考える」「読書について」を読んできてもらいました。

 

アンチ❛読書ノススメ❜⁈


 私たちは子どものから「本を読むことはよいこと」「たくさん読めば読むほどよい」ということを言われ続け、信じ込まされてきたところがあります。ところがそんな常識を覆すかのように、ショーペンハウアーは多読を戒めます。それに対して以下、参加者の意見です。


❝多読自体は悪くない、むしろよいこと。語彙が豊かになる。本を読むことをきっかけにかえって考えるようになる❞

❝多読によって自分のなかのいろいろなものがつながる瞬間がある❞


という多読肯定派と、


❝ショーペンハウアーは読書は適量がよいといっている、(多過ぎもせず少な過ぎもせず、その)中間がよい❞


という読書適量派と、おおむね2通りの意見に分かれたように思えます。


 ❝多読によって自分のなかのいろいろなものがつながる瞬間❞というのは、ショーペンハウアーのいう一個の「思想体系」が完成された瞬間というのと重なりそうです。

 「中間性」つまり「中庸」の「よさ」は古代ギリシアの哲学者アリストテレスも説いていましたが、参加者が出してくれた飲食のたとえで、よりイメージが掴みやすくなったと思います。さらに❝活動量が増えれば必要な栄養も増大する❞という補足から、職業や役割によって読書の必要な量が変わるのか?という新たな問いが生まれそうです。



なぜ読書をするのか?


 そもそも私達はなぜ本を読むのでしょうか?

 ❝一般的に何かを知りたい❞という欲求が元来私達にはあるようです。また❝知識は心の防衛の一つ❞❝知識における喜びというものもある❞というのは、日常的に実感としてあるでしょう。他に読書の効用として❝理論を知っていれば今の(例えば経済)状況や政策の背景がわかる❞という意見もありました。これに対して❝理論バカというのもいる❞という意見が出されました。❝個々人の持つ経験則というのも大事❞ということが背景にあるようです。



では何を読めばよいのか?


 ショーペンハウアーはただ適量を読めばよい、というだけでなく、本を選べ、といっています。「すぐれた書物」を読めということですが、「すぐれた書物」とは一体何なのでしょうか?

 参加者の考えるすぐれた書物は、❝みんな/自分が考えたことが書かれている❞というもの。つまり普遍性が問われていることになります。またすぐれた書物とは、❝考えさせる、主張がはっきりしている❞本という意見も。本書におけるショーペンハウアーの主張も、ややもすれば極端(はっきりしている)ゆえ、いろいろツッコミを入れたくなる(考えたくなる)――そういう観点からすれば、主張がはっきりしている本は、少なくともいろいろ考えさせる本であるといえそうです。



なぜ多読は害悪なのか?


 仕事でも研究でもすべて完璧に準備が整ってからではなく、「走りながら(実行しながら)考えろ」といわれるように、「多読でも考えながら続ければよいのでは?」と思いがちですが、ショーペンハウアーはそれが不可能だといわんばかりです。何となく彼のいっていることもわからなくもないですが、でもそれがなぜかはうまく説明しづらい。そこに参加者からヒントとなるような意見が出されました。ちょうど「手仕事」の箇所を読んでいる時だったかと思います。

 その意見とは、❝常に頭が動き続けていると、脳にストレスがかかっている状態❞だからよいアイデアが浮かばないというもの。さらにその意見を補うように、別の参加者から「馬上・枕上・厠上」の例が出されました。11世紀の中国の名文家・欧陽脩(おうようしゅう)による漢文の一節で、文章を作るのに最適な場所を3か所挙げたものです。2人の話から、アルキメデスの逸話が思い出されました。王様に王冠に使われた金の純度を割り出すように命じられた古代ローマの物理学者アルキメデスは、身体を風呂に沈めた時、湯が溢れ出すのを見てその方法を思いついたと伝えられています。金の計量方法を思いついたこと、つまりアルキメデスの原理発見となるわけですが、このことは恐らく風呂に入って脳がリラックスしていたことも原因であるといえそうです。



読書によって人は変容しうるのか? 読書は著者との対話になりうるか?


 残り時間わずかというところで課題本から少し離れて、「読書によって人は変容しうるのか? 読書は著者との対話になりうるか?」というテーマで話し合いました。問いの背景には、精神科医などによる「人は対話によってのみしか変わることができない」という発言があったからです。


 まず、❝読書するとは著者とだけなく、いろいろな人と対話すること❞という意見が出されました。なるほどポリフォニー小説を思い浮かべれば、容易に納得できそうです。

 そして二つ目の問いに対しては、❝すべての作品は何かが変わって欲しいと思って書かれているのではないか?❞という意見が出されました。私達は先程まで「すぐれた書物とは何か?」という、ある意味で本に序列をつけるようなことをしていました。しかし、その行為はもしかしたら僭越なことかもしれないと気づかされるような、すべての作者と作品へのリスペクトが感じられる言葉でした。


 他にも「単なる経験」の問題について、本と大量消費社会との関係など、ここには書ききれませんでしたが、様々な興味深い意見、テーマが出されました。



 今、『読書について』をとりあげる意義


 「出版年鑑」(出版ニュース社)によると、2017年1年間に出版された書籍点数を見るだけでも75,412点、一日平均200点あまりという膨大な数の書籍が出されています。仮に1日1冊読んだとしても、年間読むことのできる数は全体の0.5%弱。どんな活字中毒でもそのほとんどを読破することはできません。

 この本が書かれた19世紀ドイツの出版事情と今の日本の事情は、書籍流通規模こそ違いますが、ある意味で似ています。今回扱わなかった章「著述と文体について」からもそのことがうかがえます。今日、書店に行けば、「多読」「速読」「高速読書」などというタイトルがいやおうなしに目に飛び込んできて、強迫観念のように私達にあれもこれも読むべきだと迫ってくるようです。


 雑誌「BRUTUS」でしたか、「読まずに死ねるか○○○冊の本」というような特集タイトルがありましたが、良書悪書以前に何を読むかあるいは読まないか、私達は限りある時間のなかで、絞らざるをえません。そんなことに改めて自覚的になれることが、本書を今読む意義の一つなのかと考えました。

 

 ショーペンハウアーにならって、読書会(書評哲学カフェ)もただ回を重ねればよいというものではなく、回数は少なくても、一つ一つしっかりと向き合っていきたいと思いました。今後ともよろしくお願いします。






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